『まっすぐな言葉』

【No 0009】 [2004年04月10日(土) 01時53分54秒]

講演の冒頭「水谷とあなた達では住む世界が違います!」そう言った方が居ました。
ともすれば聞いている側の人間を排除する言葉です。
なぜこの人はこの場でそういう事を言うのだろう?
その疑問への答は、講演を聴き終わった後にわかった気がしました。
子供達とまっすぐ向き合い、そのため昼間の世界とは少しちがう場所に身を置くこととなった、
優しくて強い人の言葉だったのです。

 みなさんは『夜回り先生』という本をご存じでしょうか?
先日、BBSで講演会が開かれ、その講師として来てくださった「水谷修」先生が書かれた本です。
水谷先生ご本人曰く、「本当はこの本のタイトルは『いいんだよ』にしたかった」のだそうです。
窃盗・シンナー・引きこもり「死にたい」という以外すべてに「いいんだよ」と水谷先生はかえします。
確かに私も「いいんだよ」のほうが心のおさまりが良いように感じました。
いいんだと許す言葉、許される言葉、でも子供達と共に泣き共に戦ってきた水谷先生は「許す」では無いのです。
犯したしたことは何一つ許されることは無い、生きて償って行くしかないのです。
昨日は取り戻せない、今この時からそうやって生きていこう。
水谷先生はそのすべてを受け入れ、共に生きていこうと子供と向き合います。
頼っていいんだよ、甘えていいんだよ・・・もう、いいんだよ。
同じ人間として、大人として、子供を受け入れるこれ以上優しく甘美な言葉はありません。
そういってさしのべられた手は、今ここを生きられていない子供の心を握りしめているにちがいありません。
でも、その水谷先生自身が向き合っている今は、壮絶な修羅場と言って過言ではない現実です。
この方はいったいどれ程涙を流し、どれ程子供と一緒に泣いてきたのだろう?自分の命をかけて・・・。
ある少女の話をした後水谷先生はこうおっしゃいました。
「いろんなものを見過ぎました」
その言葉に、私は冒頭での言葉をうなずいて受け取ることが出来ました。
「水谷とあなた達では住む世界が違います」
そのすべてを背負い、それでもひたすら明るい方へと歩いて行く強さと覚悟を持ち合わせていなければ、
けして踏み入ってはいけない世界でした。
でもその講演に行き、今この世の中に水谷修という人間が居るとわかったことが私にとって最大の収穫です。
清濁併せ呑み、なお孤高をもって優しく立っていられる大人に久々に出会わせて頂きました。
素敵な講演の主催さんにも感謝致します。

 さて、今回は数ヶ月前に聞いた講演の感想だけを書いている訳ではありません。
だいたい、数ヶ月前の講演の事を今かい!って話ですよね。
でも、聞いた話なんて「ああ良かったね」で、たいがい忘れてしまうもの。
・・・じゃないですよね。
それで終わりなら、一生懸命話した人は何をしに来たのかって事です。
数ヶ月後、いえ…もっと後になって、あのときに受け取ったものの意味がわかったりとか、
役立ってたりとかすることが多いのです。
…だから今頃、なんです。(言い訳じゃなくね^^;)
実際私も今だから(自分のフィルターを通したから)見えてきた事もありますから。

…と言うことで今回も続き物…やっちゃいました。
「その2」へ続く。


【No 0010】 [2004年04月10日(土) 02時03分08秒]

人から聞いた言葉なんて一言一句憶えているわけではありません。
でも、心に刻まれた言葉は残っているものです。
いえ、残っているではなく「自分のものになる」が近い表現かもしれません。
だからはっきり水谷先生がこういったという自信はなく、先日も西山さんにメールでこう訪ねました。
「あの講演の最後、水谷先生は『子供を好きになって下さい』って言ったよね」
そう、少なくとも私はそう聞いたようで、その言葉がずっと心から離れませんでした。
なぜかというと私には子供が居ないからです。
普通なら個として愛せるはずの子供に、種として愛する多様で寛容な心が求めらるのです。
その子供という存在じたい、自分にないものを見せびらかされているような虚しさと寂しさを乗り越える
ハードルのようにも感じます。
子供が好きで当たり前、子供が苦手などと言おうものなら冷たい人間だと軽蔑される、
だからそのように振る舞わなければならない。
でもやっばり子供と関わるのは、精神的にけっこうキツイのです。
一度、大江さんになぜ私がBBSに籍を置いていたかを話したことがあります。
まっ、理由はそんなところです。
子供は可愛がらなくちゃダメ、子供が好きで当たり前、たしかにそうです。
それは私にもよくわかっていますし、そうでなければならないのです。
けれど子供が出来なかった私に、未だかつて誰一人として
『子供を好きになって下さい』なんて言った人は居ませんでした。
下さい。…なんてお願いしてくれた人なんていませんでした。
もちろん私に対して水谷先生が言ったわけではありません。
でも、まっすぐな言葉は、まっすぐ心に届きました。
私にとって水谷先生の言葉は、まさに「いいんだよ」に他ならない言葉だったのです。
「ねばならない」の呪縛から解放されただけで、どれだけ楽に子供と言う存在と向きあえることか。
それをここ数ヶ月で実感しました。

まだ苦手意識が抜け切れているわけではありません。
でも、自分でも驚くほどまっすぐ子供に笑いかけている事に気づきます。
それは他の人から見ればなにも変わっていないはずです。
今までも私は子供にニッコリと笑っていましたし、子供にも結構なつかれる体質のようですから。
本当になにもかわりはありません。体制に影響は皆無です。
なにしろ変わったのは私の気持ち(こころ)だけなのですから。
自分の心はこうやって言葉や文章にしない限り、誰も気づきません。
でも、その気づきの種をまいてくれた人は、
まっすぐな言葉で私たちに気づかせようとして語りかけてくれました。
語りかけてくれた言葉はきちん返すのが礼儀です。
心にしまい込んだものを言葉や文字にして、ほんの少しお返しをしようと思います。

「その3」へ続く。


【No 0011】 [2004年04月10日(土) 02時13分40秒]

水谷先生の講演を聞いてすぐ後ぐらいに「TVタックル」という番組で水谷先生のことを取り上げていました。
短い時間でしたが、とても伝わるものが多い映像でした。
町に出ている子供達に声をかけていると講演で話してくださっても、
実際その時の声の色や子供に向けている視線まではわかりません。
でもテレビではそれがとてもよくわかりました。
静かに子供に近寄っていく、子供がある程度自分の気配に気づくまで待つ、
そして初めて優しく静かな口調で語りかけます。
父親でもなく母親でもない、自分がどうかなっても迷惑のかからない赤の他人が、
自分を気遣う言葉を投げかけてくれる。
子供達は少し不思議に思っているのでしょう、でもみんな素直にその言葉に耳を貸していました。
それはたぶん、水谷先生が“ちゃんとした大人”だからでしょう。
子供は親という大人を頼って生きていきます。
頼っているからこそ、大人を見る目はとてもシビアなのです。
水谷先生の優しい言葉、視線、それが子供に耳を傾けさせるのでしょうか。
もちろんそれもあります。
でも、もっとわかりやすいことがあります。
それは水谷先生が講演会場に入ってこられた瞬間に感じました。
水谷先生、格好良かったんです。
「もう今日で3日寝て無くて・・・」そう言われた先生の髪もスーツも、ネクタイも、一分の隙もなく整っていました。
その昔『服装の乱れは心の乱れ!』って、そういわれませんでした?
自分をかまえない人間は、ひとも構えない。
自分にいい加減だったら、ひとにだっていい加減なんです。
服は、人に自分をどう見て貰うかの気持ちの表れだと私は思っています。
でも『TVタックル』という番組を見るまでは、私は「夜回り」をしているときの服装はきっと
もう少しラフなものだと勝手に想像していました。
そしてテレビの映像を見て、私は思わず息をのみました。
夜中、道ばたに座る子供に声をかけている水谷先生は、講演のときと同じように、
スーツにネクタイ姿だったのです。
この人はすごい人だ、そう思いました。
町を徘徊している子供に会いに行くとき、誰がスーツにネクタイを締めて出かけて行くでしょうか。
でも、水谷先生はそれで会いに行くんです。
自分がカッコイイと思ってやっているのではないはずです。
たとえば大事な商談相手の会社に出かけるとき、誰がスェットスーツで出かけますか?
誰だって身だしなみには気をつけ、ここ一番のスーツやネクタイで出かけますよね。
それが相手に敬意を払っているかわかって貰うためにとる態度です。
子供と真剣勝負で向き合う気があるなら、本気なら、子供を軽んじる気持ちがないのなら、
スーツにネクタイは礼儀だと思いました。
まして初めて合う子供達なのですから、それはマナーと言えるのかもしれませんね。


【No 0012】 [2004年04月12日(月) 02時09分51秒]

「悩んだら電話しなさい。水谷は、どこでも会いに行くよ。」
その言葉を聞いたとき、この人は会いに来てくれると思いました。
今この時に会いに来て欲しいと思っている人間はきっと何十人、いえ何百人要るにちがいない。
実際には、無理なんだろなと頭のどこかでは知っている。
でも「この人は必ず会いに来て来る」と信じられる何かが水谷先生にはあります。
だって、水谷先生は飾らず、てらわず、まっすぐ真摯な思いで語りかけるのですから。
この広い世界の中で、この人だけは自分を気にかけていてくれる、自分の方を向いていてくれる。
そう信じられる存在がいるかいないかで、人は確実に進む道が分かれます。
一度人を信じることを憶えると、人は孤独にも強くなります。
「電話をしなさい」という“言葉”じたいが支えになるのです。
私も頭はどうあれ、心は本気で「水谷先生は本当に会いに来てくれる」と信じている一人です。

 さて、私の友人にも講演活動をしている人がけっこう居ます。
今旬な話、第一線の人、その道のエキスパート、そういう人達が講演に呼ばれるのですから、
間違いなく忙しい人ばかりです。
その口癖はご多分に漏れず「忙しい」。
現代人にとって「忙しい」は、一つのステイタスなニュアンスを含みます。
でも、「忙しいって言う言葉は人を遠ざける言葉だよ」って言うとみんな苦笑いをします。
まっ、それは余談ですが、そんな忙しい人達がなぜ寝る時間を削ってでも講演活動に行くのか
一人でも多く知ったり気づいたりして貰いたい、形はないけど持って帰って貰いたいのです。
普通に話しかけても「はい」と相づちがかえるのに、
1時間以上一生懸命話した相手が拍手だけして黙って帰っていくのは寂しいです。
でも後日、その言葉に応えてくれるメールなどを貰うだけで、がぜん力が湧くのだそうですよ。
返事を貰うためにメールを送るのではなく、
話しかけられた言葉に相づちを打つ感覚のメールがあってもいい。
もちろんお礼の意味だけではなく、それは自分に送られたデータをきちんと処理する事でもあります。
(今書いているコレね…。^^;)
言葉や文字にすることは、人に伝える&自分でもう一度考えてみること。
で、今回もう一つ気づいたことがありました。
タイトルに『まっすぐな言葉』とつけさせて頂きましたが、まっすぐな言葉とはどんな言葉かということ。
飾らない、ひねらない、真摯な思いそのままの言葉でしょうか?
そしてふと思いました、水谷先生って生粋の関東弁だったな…と。

もうずいぶん昔ですが、私が働いていた職場にコテコテの関西人と、
チャキチャキの江戸っ子の男性が居ました。
私が白い服を着ていくと、関西人は「お〜っ!どないしてん今日はデートかぁ?」と言い、
関東人は「あっ、今日は真っ白だね♪」と言います。
デートか?ということは、デートに行くときくらい可愛い、という意味です。
ならば、可愛いと言えば良いようなものですが、要するに関西人は素直じゃない。
素直じゃないというと語弊がありそうなので言葉をかえます。
おもてなし精神が旺盛で、言葉一つでもそのまま渡すという事が出来ないのです。
丁寧にぼけてつっこみ、果ては“オチ”というお土産まで用意する「愛想」が関西人。
それに引き替え関東人は見たままなんのひねりも飾りも無く、ぶっちゃけおもろないのです。
そのどちらが良い悪いと言うことではないのです。
ただ、その子供に必要で大切な言葉をピンポイントで心に届けようとするときには、
“弁”の問題ではなく、伝えたいことに見合ったまっすぐな言い回しになっているかどうか
気をつけなければならないと感じました。
「悩んだら電話しなさい。水谷は、どこでも会いに行くよ。」
その本当を伝えたいとき、まっすぐな言葉は、まっすぐ心の奥に届くようです。

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BBSではこんな素敵な講演を主催しています。
それを証明してくれるようなメッセージが書かれています。
会員の方も掲示板とかに書いてみませんか?また発見があるかもしれませんから。
http://www.wingnest.com/blog/index.php?itemid=172

『夜回り先生』水谷修先生HP
http://www.sanctuarybooks.jp/mizutani/