都心から少し離れた街にオヤジ猫は暮らしている。
下町長屋の縁の下で生まれたオヤジは、成り行きのように大家の猫になった。
仲間から一目置かれる存在であるが、
勢力抗争に興味はなく、いつも一匹で過ごしている。
長屋の軒先に置かれた縁台にいつも居るため、
そこだけがオヤジの世界だと住人達は思っていた。
街路樹の枯れ葉が猫心をくすぐるようにカサカサ音を立てる秋。
午後3時を境にオヤジのベッドである縁台は日陰になる。
道の向こうに出来た高層マンションのせいだ。
オヤジはぶるっと身体を震わせたが、心地よい日だまりには無頓着で、
日陰になっても毛繕いなどして時を過ごしていた。
ただ、時折寂しそうな顔でチラリとマンションの最上階を見上げ、
ニャア…と鳴き声をあげる。

長屋の側に高層マンションが建ったのはいまから2年ほど前。
当初は、日照権やらなんやらで、大家がねこまんまに
カツオブシをかけ忘れるくらい大事件だった。
しかし、折り合いという諦めに促され、
いつしか町内は平穏を取り戻した、そんなある日・・・。
マンションの最上階に住む老夫妻が連れだってマンションを出てきた。
奥さんの手には白いバスケット、二人で車を待っているようであった。
オヤジは縁台からマンションの方を眺めつつ、サンマの名残を毛繕いしていた。
今日の見回りに行こうと思い腰を浮かせたその瞬間、通りから
老婦人の悲鳴と急ブレーキの音が響いた。
そこから長屋の路地を一目散に走ってくる小さな陰。
見知らぬ猫、いや見たこともない猫。
通りで轢かれそうになった事がよほど恐かったのか、
すごい勢いでオヤジの横を走り抜けていった。
シルバーグレイの毛並みと不思議な碧い瞳。
オヤジは縁台を飛び降り彼女の後を追った。

それから3日後、
彼女はマンションへ帰ると言った。
彼女が帰りたかったわけではなく、オヤジも帰したいとは思わない。
大家も不意に現れた高そうな猫に驚いていたが、
彼女が美味しそうにおかかご飯を食べるようになってからは、
ちゃんと二匹分よそってくれるようになったのに…。
「帰るんか?」
ずっと居ててもええんやでという言葉をオヤジは飲み込んだ。
「ええ、帰らないと悲しむから」
おまえはどうなんや?とも聞けなかった。
彼女には帰るだけの理由があり、自分には引き留める理由が無いと思った。
優雅に踵を返した彼女を見送り、
「そうやな、元気でな」
と、オヤジ猫が呟いたのは、
彼女がマンションの自動ドアをくぐった後であった。
たった3日だったが、幸せだった。
「良かったな…」
とは何にいった言葉なのか。
確かに幸せで、そして誰も不幸で無いことは間違いなかった。

それから数ヶ月程が過ぎたある日、
マンションの入り口にバスケットを持った見知らぬ人が降りてきた。
オヤジはなにかを期待するように側の花壇の植え込みに急ぐと、
エントランスに置かれたバスケットに走りよった。
買い物かごのようなバスケットで彼女が入っているわけはなかったが、
持ち主が車を取りに行った隙を見て中をのぞき込んだ。
居たのは小さな3匹の子猫。
オヤジはシッポまで電流が走った。
{アイツとワシの子やッ!}
シルバーグレーの毛並みが2匹、
自分と同じ黒に少し白が混じった子猫が一匹。
白いタオルの中で眠そうに動く子供達に見とれていたが、
近づく車の音でふと我に返った。
{こいつらどこに連れて行かれるんや?!!どないしよう・・・}
戻ってきた車のドアが開く音を聞いたとたん、
オヤジはとっさに一匹の子猫を咥えて走り出した。
「あっ!コラッ!!!」
{コイツを守らんと!・・・コイツだけでも!}
この時ばかりはオヤジは人間が羨ましかった。
たった1匹の子供だけしか咥えて逃げられない自分が恨めしかった。
オヤジは子猫を気遣いながらひたすら走った。
咥えていたのは自分に似た毛色の黒猫。
自分に似ているからその子を選んだわけではない。
1匹だけなど選べるわけは無く、一番手前にいた子を咥えただけなのだ。
だが、その子の瞳が母親にそっくりにオッドアイだったからかもしれず、
そうでなかったかもしれない。

しばらくしてオヤジは安全な場所で子猫を降ろし、
わびるようにその身体を何度も舐めてやった。
「すまんな、恐かったやろ…」
子猫は怖がってはいなかったが、不思議そうに、
「誰?ねーちゃん達は?ママは?」と訪ねた。
オヤジが返答に窮していると、子猫はまた訪ねた。
「トーチャン?」
「おまえなんでワシのことをっ!?」
驚いて聞き返すと、
「外の世界に出たらトーチャンが居るってママが言ってた。僕はトーチャンに似てるって」
「・・・あいつ、そないなこと」
嬉しそうに顔をクシャクシャにし、オヤジはまた子猫を舐めはじめた。
小さな命が愛おしくて、舐めるのを止めてもまたすぐに舐めてしまう。
そんなことを繰り返しつつ、
オヤジはこの子を大家の家に連れて帰っていいものかと思案をしていた。
まだミルクを飲んでいて、せいぜい離乳食しか食べられない子供である。
夜遅くにしか帰ってこない大家にはとうてい世話は無理である。
息子を助けたつもりだったが、後のことは全く考えても居なかった。
お腹を空かせた息子に飲ませるミルクさえ大家の家には無い。
その時、巡り会えた息子を断腸の思いで手放さなければならないと
オヤジは悟った。

数週間前に隣の町内で一匹の猫が死んだ。
18年可愛がられ大往生したボス猫だった。
飼い主は「もう二度と猫なんか飼わない…」と泣いた。
「二度と猫なんか飼わない…」という人間は、二度と飼わない事は無いと言うことを
オヤジは知っていた。
オヤジはまた息子を咥えた。

隣町に行く途中、河原や猫集会所や安全な路地を息子に見せた。
その間にオヤジは少しだけ自分のことも息子に教えた。
まだおぼつかない足取りで河原を息子が歩く。
{心配と幸せは同じモンか?}
と不思議に思えた。
目的の家に着いたとき、あたりは少し暗くなり始めていた。
オヤジは息子を降ろすと間をおかず
「お前は今日からココで暮らすんや。 さぁ目一杯鳴いて飼い主に来てもらえッ!」
と走り去った。
突然のことに子猫はオヤジが消えた方に歩き出し、大声で父親を呼んだ。
玄関の階段が降りられず、ただ必死で父を呼び続けていると、
外灯を点けに来た家主がそれを聞きつけ外に出てきた。
「あらまぁ…小さな猫。 どこから来たの?」
子猫を抱き上げ玄関から通りを眺める。
不思議そうに首をひねった家主は、北風にブルッと肩を振るわせ、
子猫を抱いて家の中へと戻っていった。

「トーチャン!トーチャン!!」と言う声が
まだ微かに聞こえる。
生け垣の下で一部始終を見届けたオヤジは、
クルリと背を向け自分の家へ帰った。
{猫の幸せは、いっぱいなでられて、いっぱいカツオブシ貰える人の所で暮らすこと。
きっと幸せになれる。きっとな…}
長屋の縁台に戻ったオヤジは、フエルトの座布団の上で目静かにを閉じた。
しばらくして大家の足音に耳をピクンと動かしたオヤジは、
ピョンと縁台から飛び降りると、今日も何事もなかったように
ニャ〜ッ!と鳴いた。